LOVE IN THE
AFTERNOON

PART 2


 ホテルリッツの夜は眠らない。
 楽しき夜が始まろうとしている、午後8時55分。
 チャーリーに浮気調査を依頼した、風采の上がらない唸り男は、業務用エレヴェーターで、スウィート14がある階まで上がり、柱の影から、銃を片手に様子を覗っていた。
 しばらくして、リッツのボーイたちが、スウィート14に嵐のように豪華な食事を次々に運び入れてゆく。間髪入れずに4人のジプシー楽団が、それぞれの楽器を手に中へと入ってゆく。彼らの動きは、まるで軍隊のように規則正しい。
 ふいに業務用エレヴェーターの開く音がし、男は注意をそちらに向けた。
「・・・あっ!」
 男は、思わず、その細い目を皿のようにする。
 視界に入ったのは、妻によく似た、黒いドレスの女だった。顔を覆う長いヴェールのついた帽子を目深に被っている。チャーリーの報告とも一致する。
 何よりも、体型、しぐさがよく似ている。・・・しかし、顔だけが、ヴェールが邪魔して窺い知ることが出来ない。
 女は、足早にエレヴェーターから降りると、きょろきょろとあたりを確認しながらスウィート14へと向かう。背徳の疚しさが彼女の行動から見て取れる。
 女が、体をドアに摺り寄せるようにしてノックをすると、静かにドアが開かれ、誰かが女を中へと招き入れる。
 男は、激しい怒りに身を焦がし、銃を持つ手が震えた。彼は堪らなくなり、そのまま、ドアノブに手をかけた。・・・が、しかし・・・。
「・・・・・・!!!!!」
 ドアの中からは、激しい旋律が聞こえ、彼は思わず顔をしかめた。
 それとほぼ同じタイミングで、スウィート15の老婦人が帰ってきたため、男は再び柱の影に隠れる羽目になった。
 老婦人は何も気が付かず上機嫌で部屋に入っていったが、ただひとつ、うっかり忘れてしまったことがあった。彼女は、ドアの鍵を抜くのを忘れていた・・・。


 アンジェリークは、コンセルバトワールの夜の授業を受けていたが、とても落ち着いてチェロの演奏が出来なかった。
「ねぇ、今何時?」
 アンジェリークは、今日は、うっかり時計を忘れてきてしまい、先ほどから何度も、隣のフルートを演奏するランディに時間を聞いていた。
「9時15分!」
 聞いた瞬間、自分の演奏の番がきてしまい、アンジェリークは慌ててチェロを弾く。
 そのパートが曲の最後で、授業もそこでお開きになった。
「ねぇ、ランディ! 今何時?」
「9時20分! ------今日の君は絶対おかしい!」
 ランディは、ほのかに恋心を覚えるアンジェリークの様子が気になって仕方ない。
 アンジェリークは、今自分がどうすべきかを少し考え込み、ふいにその澄んだ青い瞳をランディに向ける。
「ランディ、テレフォンカード持ってる?」
「持ってるけど・・・」
「じゃ貸して!」
 ランディは、不可思議なアンジェリークの行動に頭をひねりながら、テレフォンカードを差し出した。
 アンジェリークは、それを受け取ると、そのまま教室の廊下にあるテレフォンボックスへと慌てて向かった。
 彼女は、あらかじめ電話番号を調べておいたリッツに電話する。
『お電話有難うございます。ホテル・リッツでございます』
「あ・・・、あの、スウィート14のアリオスさんをお願いします」
『アリオス様はもうお休みになられました』
「ちょっとでいいの! 繋いでください! でないとアリオスさんは永遠にお休みになっちゃうわ! ・・・もしもし?」
 ここまで言ったところで、空しくも電話は切られてしまった。耳に残るのは、ツーツー音のみ。
 アンジェリークは、額に冷や汗を滲ませながら、肩をがっくり落とす。
 どうしたら犯罪を未然に防げるのだろうか・・・。
「あっ! 餅は餅屋に頼むのが一番!」
 彼女はそのまま警察へ電話をかける。
『はい、911』
「犯罪を報告します!」
『どうぞ、』
「男性と女性が、ホテル・リッツで密会中で、そこに女性のご主人が大きな銃を持って撃つときを待ち構えています!」
『まだ銃は撃っていないんですな?』
「ええ!」
『じゃあ弾が当たったら連絡してください、マドモアゼル』
「おまわりさんが防いでよ!」
警官の無責任な発言は、アンジェリークを逆上させる。
『----いいですか、マドモアゼル。パリには7千のホテルがあり、22万の部屋があります。そのうちの4万室で不倫が進行中です。それにいちいち警官を派遣していたら、ボーイスカウトまで動員しなくちゃいけなくなります。いちいち派遣は出来んのですよ・・・』
「・・・はい・・・、スミマセンでした」
 アンジェリークは、落胆を禁じえない大きな溜め息をつき、うなだれた。
「アンジェリーク、車で送るから一緒に帰ろう」
 ランディは、テレフォンボックスを静かに開け、中にいるアンジェリークに声をかけた。
 その言葉にアンジェリークは、はっとした。
「ねぇ、ランディ・・・、一緒に帰ろう」
「ああ」
 アンジェリークは、ねだる子供のようにランディを上目使いで見る。
「----ちょっとリッツに寄ってくれる?」


 男は、柱の影に隠れ、実行のときを待っていた。
 丁度その時、アンジェリークを乗せた業務用のエレヴェーターが、スウィート14の階に到着し、彼女は例の男を見つけ、少しだけほっとする。
 よかった、まだアリオスさんは無事ね・・・。
 ホッとしたのもつかの間。スウィート14からは、ラストをを飾る「魅惑のワルツ」が流れ始めた。
 これには、アンジェリークも男もびくりとした。特にアンジェリークは、心臓が竦むかと思った。胃がこわばり、唾液の量が増える。
 どうにかしなければならない。
 ふと、彼女の視界に、スウィート15の鍵がさしっぱなしのドアが入った。
 これだわ! 何とかバルコニーをつたってスウィート14にいけるかもしれない。
 男を見ると、ドアを開けるタイミングを計るのに夢中で、こちらに気がついていない。
 アンジェリークは、そっとドアに手をかけスウィート15に入っていった。
 幸い、スウィート15の主は眠っており、アンジェリークは忍び足で、バルコニーへと出た。
 あまりに高さに、足が竦んだが、下を見ないように、ゆっくりとバルコニーと樋を利用して、スウィート14へと向かう。スパイダーマンにでもなった気分だ。
 やっとのことでスウィート14にたどりつき、チークダンスを踊るアリオスと女の前に立つ。
 最初にアンジェリークに気が付いたのは、楽団員たちだった。彼らは、訝しげにアンジェリークを見つめている。
「アリオスさん! アリオスさん!」
 アンジェリークは、囁きながら、何度もアリオスの背中を叩く。
「----ん・・・?」
 アリオスは、ふいに女から体を離すと、美眉を寄せながら、切れるような鋭い視線をアンジェリークに向けた。
「おまえはだれだ・・・?」
「そんなこといってる場合じゃないの! アリオスさん、あなた撃たれますよ!」
 アンジェリークの言葉は深刻に響き、アリオスは表情を険しくする。
 彼女の言葉に、楽団員たちも、一瞬、演奏を止めてしまう。
「演奏続けて!」
 アンジェリークの鬼気迫る声に、楽団員たちは慌てて演奏を再開する。
「とにかく、彼女のご主人が外で待ち構えているの! 大きな銃を片手にね!」
 女は、息を飲むが、アリオスは、表情こそ険しいが、落ち着いている。
「じゃあ、あんまし時間がねぇんだな?」
 アンジェリークはしっかりと頷く。
「じゃあ、手を貸してくれるか? やせっぽちさん・・・」
 アリオスは、くらくらするような甘い微笑をアンジェリークに向けた。


 男は、中の騒動も知らずに、演奏が終わるのをずっと扉の前で待ちつづけていた。
 やがて演奏は、10時きっかりに終わり、楽団員は部屋からぞろぞろと出てきた。最後に出てきたものが、扉に「起こさないでください」のプレートをかけていく。
 楽団員たちが、姿を消すと、男は巨体を揺らして、ドアを蹴破り、中へと入ってきた。
「悪いが、今夜はこれでお開きだ!」
 男のすこし間の抜けた言葉に、ソファに女と座るアリオスは、笑いを堪えながら、ゆっくりと男へと振り向く。
「おまえ・・・誰だ?」
「おまえの隣に座る女のバカな寝取られ亭主だ」
 男は興奮していてろれつが上手く回らない
「私のバカな亭主ですって?」
「えっ?」
 いつもと違う、明るくかわいらしい声に、男はきょとんとした。
「あれ・・・」
 男は、女の正面に回り、帽子のヴェールをゆっくり取ってみた。
「・・・! 違う!」
 そこにいたのは、大きな青い瞳が幼げな、亜麻色の髪をした少女----アンジェリークだった。
「間違いだったのか・・・、よかった」
 男は、総ての緊張が抜け、その場のへなへなと崩れ落ちた。
「申し訳ない・・・」
「よくあることだろう・・・」
 アリオスは、男の相手をしながら、アンジェリークに目配せをする。
 彼女は、さりげなくバルコニーに出て、先ほどアンジェリークがきたルートをたどる女を見届ける。
「しかし、ここに入る時に見たのは、確かに妻だったと思ったんですが、ただの思い違いでした」
「見間違いはよくあることだからな」
 アリオスは、アンジェリークガバルコニーに入ってきたことを確認すると、静かに男をドアまで導く。
「妻は、こんなに痩せた小娘ではないのに、とても美しい、世界一の美女です」
「一度お目にかかりたいものだな」
 アリオスは、男の単純さを感謝していたが、同時に軽蔑もしていた。
 そんな彼を、アンジェリークは後ろから見つめる。アリオスの魅惑的な左右違う色の瞳に冷たさが宿り、アンジェリークは魅了されずにはいられなかった。
「では、ご迷惑をおかけしました!」
 男は深深とお辞儀をすると、部屋から出て行った。
「よかった・・・」
 アンジェリークは安堵の溜め息をつき、そっとヴェール付の帽子を取った。
「助かった、ありがとよ」
 アリオスは、銀色に輝く少し長めの前髪をかきあげながら、甘い微笑をアンジェリークに向ける。
 その素敵さに、アンジェリークはくらくらする。
「人を殺すのは・・・、いけないから・・・」
 恥ずかしそうに俯くアンジェリークに、アリオスは意地悪だが優しい笑みを浮かべながら近づいていった。
 急にドアがノックされた。
「誰だ?}
 アリオスは舌打ちする。
「さっきの亭主です」
 アリオスは、アンジェリークをそのまま腕の中に引き込むと、強く抱きしめる。
「入れ!」
 アリオスは、それを合図に、アンジェリークに深い口づけをした。情熱的な口づけ・・・。それはアンジェリークには未知の世界だ。
「・・・ん・・・・、あっ・・・」
 アンジェリークは、突然の出来事に、心臓が飛び出してしまうかと思った。
「すみません・・・、あっ、お楽しみのところを・・・、銃を忘れまして・・・」
 男は恐縮しながら中に入ってくると、おずおずと銃を拾い帰っていった。
 ドアが閉まると、アリオスは、名残惜しげにゆっくりとアンジェリークから唇を離す。
 アンジェリークは、頭の芯まで溶けてしまうかと思うほど、ぼんやりとし、うっとりとアリオスを見つめる。青い瞳が、未知の世界への欲望に煙る。
「今から、続きをしねぇか」
 アリオスは、クッと喉を鳴らして笑いながら、アンジェリークに甘く囁く。
「・・・あっ、私・・・、もう帰らないと・・・」
 アンジェリークが、アリオスの腕から逃れようとすると、彼は優しくその腕を取った。
「今日のことはどこで知った?」
「・・・あっ・・・、友達の友達の友達の友達から・・・」
 まさか兄の話を盗み聞きしたとは言えず、アンジェリークはしどろもどろに答える。それがアリオスには、新鮮に映る。
「明日は、パリで最後の日だ。ここにこねぇか? 9時に」
「遅すぎるわ・・・」
「じゃあ6時」
「それも遅いわ・・・」
「じゃ3時は?」
「私はここに来るって返事してないわ・・・」
 アンジェリークは、ここにくれば、どうしようもなく彼に恋をしてしまうことが判っていたため、最後の理性を振り絞っていた。
「来るとおまえが約束するまで、離さないと言ったら?」
 アリオスは、意地悪げに笑う。
「・・・判った・・・、3時ね?」
 アンジェリークの理性が音を立てて崩れ去る瞬間だった。
「待ってるぜ」
 アリオスは、ゆっくりとアンジェリークから腕を離すと、彼女を部屋の入り口まで送っていった。
「今日は助かったぜ?」
「パリには、7千のホテルがあって、22万の客室があるわ。そのうち4万室で不倫が進行中よ」
「なんだよ、それ? 統計学の専門家か?」
「----背が高いのね・・・? きれいな指ね・・・。アリオス、大富豪、建設業、石油業、航空業、音楽業、コンピューター関連業・・・」
 アンジェリークは、うっとりとアリオスを見つめながら、呪文のように呟く。
「さよなら・・・、大富豪のプレイボーイさん・・・」
 アンジェリークは後ろ向きにドアの外へと進む。
「またな。人助けさん」
 アリオスは、アンジェリークに優しい笑顔を向ける。
 ドアが閉められた後、アンジェリークは、「魅惑のワルツ」を楽しげに口ずさんでいた。

 ランディに車で送ってもらっている間も、アンジェリークはずっと浮かれたように「魅惑のワルツ」を口ずさみつづけた。
 家の前に着いたときも、アンジェリークは曲をく口ずさみ、躍りながら車を降りた。
これには、さすがのランディもあきれる。
「アンジェリ−−ク、しっかりしろ、僕だよ、ランディだよ、君の友達の!」
 ランディはアンジェリークの目の前で何度も手を振り、アピールする。
 アンジェリークはうっとりと微笑みながら、車からチェロを取り出すと、彼にこう云った。
「さよなら・・・、お友達・・・」
 呆然とするランディを尻目に、アンジェリークは、家へと入っていった。
「アンジェリーク!」

 アンジェリークが家に帰ると、頭をかしげた兄がいた。
「おっかしなー、依頼人が、俺の報告がちゃうかったって、いいよんねん」
 兄の言葉に、真相を知るアンジェリークは、にんまりと微笑んでしまった。


コメント

ようやく出てきましたアリオスさん。(^^:)今回はキリが悪くて長くなってしまいました。この回は、ランディ受難編です。文字が多いのでくらくらされないようにしてくださいね。